トルコ
トルコで地震が起き、犠牲者が沢山出ています。
それで、和歌山県では義援金を募集したり、
救援物資を送ると今日の宮崎日々新聞に
載っていました。
でもなぜ和歌山県がとは書いていません。
それにはこんな歴史があるのです。
正確な情報をうる覚えで書いてはいけないと思い
ネットで検索しました。
いろんな記事が出てきましたが、
それを抜粋してみました。
*<明治23年(1890年)の出来事です。
トルコ皇帝ハミル二世が日本に派遣した特使一行を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路、暴風雨に遭遇してしまいます。
この遭難事故で、トルコ特使を含む518名が死亡してしまいましたが、死を免れた69名は、地元漁民の手厚い救護により一命を取りとめます。
このとき串本の村人たちは、台風により漁ができず、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護しました。
貧しい村人たちにとっても、ほんとうに命がけの救助と介護だったのです。
そして遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。
後日、遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられました。
この話に同情した山田寅次郎という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡ります。
明治25(1892)年、イスタンブールに上陸した山田寅次郎は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁します。
山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くしました。
この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャがいます。
そのケマル・パシャこそ、トルコ革命の指導者であり、トルコ共和国の初代大統領、トルコ共和国の建国の父といわれるトルコの大英雄です。>*
ここまでが
エルトゥールル号遭難事件です。
この事件のことは知っている人も多いと思いますが、
実はそれから95年後に
イラン、イラク戦争が勃発しその時に
トルコの人々は日本に恩返しをしてくれるのです。
私はこのことを日本人ももっと知って欲しいと
思っております。
*<イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」
と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。(筆者注この当時は自衛隊機を派遣出来なかった。日航も安全が確保出来ないと飛ばなかった。)
そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。(筆者注 日本政府がトルコ駐日大使に窮状を訴えたとの記事もありました。)
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供たちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」 >*
別の人の情報によると、
この時、トルコ人も脱出するために飛行場に
集まっていたのです。
自国の飛行機が来たので、てっきり自分たちを乗せると
思っていたのに、日本人のための飛行機と知って、
みんなは日本のためならと、怒りもせず、送り出してくれたのだそうです。
95年前の事件を知っていたので、
我々は陸続きだから自動車でもなんでも帰れるからと、
温かく見送ってくれたのです。
涙の出そうな話ですね。
やはり、恩義って大事ですね。
今日は他の記事を貼り付けたり、
自分で書いたりと解りにくいかもしれませんが、
御勘弁を。
長くなってすみません。
息抜きに今日も花火を観賞して下さい。